最近、大河ドラマ『真田丸』を見ています。
戦国時代の人たちを見ていると、今の私たちの感覚では少し不思議に感じる場面があります。
なぜそこまで家のために命をかけるのか。
なぜ主君に尽くすのか。
なぜ血筋や領地を守ることがそこまで大事なのか。
現代の感覚で見ると、理解しにくいこともあります。
でも、ふと思いました。
当時の人たちは、当時の常識の中で生きるしかなかったのだと。
家を守る。
主君に仕える。
一族を残す。
領地を守る。
負ければすべてを失う。
そこには、その時代なりの合理性があったのだと思います。
人は、その時代の常識の中で生きるしかない。
この視点は、今の育成年代の指導や子育てにも通じるのではないかと感じました。
私たちも、いつの間にか“古い世代”になっている
明治には明治の常識がありました。
大正には大正の常識がありました。
昭和には昭和の常識がありました。
そして平成・令和には、平成・令和の常識があります。
私たち昭和世代も、若い頃には上の世代に違和感を持っていたのではないでしょうか。
「厳しすぎるな」
「上下関係が強いな」
「我慢を美徳にしすぎるな」
「話を聞いてもらえないな」
「昔の常識で判断されているな」
そんなふうに感じたことがあったかもしれません。
でも、上の世代の人たちは、自分たちが古い価値観を押しつけているとは思っていなかったはずです。
むしろ、
「これが当たり前だ」
「これが社会で生きる力だ」
「若い者は甘い」
そう思っていたのかもしれません。
ここで少しだけ、胸に手を当てたいところです。
今度は、私たち昭和世代が、平成・令和世代の子どもたちから同じように見られている可能性があります。
自分では普通に言っているつもりでも、子どもたちから見ると、
「古いな」
「厳しいな」
「話が通じにくいな」
「気持ちをわかってもらえないな」
と思われているかもしれません。
なかなか耳の痛い話です。
私も昭和生まれですので、心の中で小さく正座しています。
昭和の良さは、捨てなくていい
ただし、昭和の価値観を否定したいわけではありません。
昭和には昭和の良さがあります。
粘り強さ。
責任感。
礼儀。
継続する力。
我慢強さ。
仲間や組織を大切にする感覚。
これらは、今の時代にも必要な財産です。
簡単にあきらめない。
自分の役割を果たす。
挨拶や礼儀を大切にする。
苦しい時にも踏ん張る。
チームのために動く。
こうした力は、サッカーでも、学校でも、社会でも大切です。
だから、昔の価値を全部捨てる必要はありません。
問題は、その価値を昔のままの言葉や関わり方で伝えようとすると、今の子どもたちには届きにくいことがある、ということです。
そのままでは届かない言葉がある
たとえば、こんな言葉があります。
「根性が足りない」
「昔はこれくらい普通だった」
「言われなくてもやれ」
「怒られて強くなる」
「我慢しろ」
昭和世代にとっては、経験則かもしれません。
実際に、そうやって乗り越えてきた人もたくさんいます。
その言葉の奥には、子どもたちに強くなってほしいという願いがある場合も多いと思います。
ただ、平成・令和世代の子どもたちには、そのまま届かないことがあります。
「理解されていない」
「押しつけられている」
「否定されている」
「自分の気持ちは聞いてもらえない」
そう受け取られてしまうことがある。
すると、大人が伝えたかった本来の価値が届く前に、子どもの心が閉じてしまいます。
これは、とてももったいないことです。
大人が伝えたいのは、子どもを傷つけることではないはずです。
本当は、強くなってほしい。
粘り強くなってほしい。
自分で考えられるようになってほしい。
仲間を大切にしてほしい。
困難に向き合えるようになってほしい。
であれば、必要なのは否定ではなく、翻訳です。
昔の価値を、今に届く言葉へ翻訳する
昭和の良さを捨てる必要はありません。
必要なのは、今の子どもたちに届く形へ翻訳することです。
たとえば、
我慢を、自分を整える力へ。
根性を、崩れても戻れる力へ。
上下関係を、リスペクトのある横の関係へ。
怒られて覚えるを、振り返って自分で気づくへ。
言われなくてもやれを、自分で基準を持つへ。
厳しさを、成長を支える基準へ。
優しさを、安心して挑戦できる土台へ。
こう翻訳すると、昔の価値が今の子どもたちにも届きやすくなります。
「根性を出せ」と言う代わりに、
「ミスをしても、次のプレーに戻ろう」
と言う。
「我慢しろ」と言う代わりに、
「今、自分の心を整えるために何ができる?」
と聞く。
「言われなくてもやれ」と言う代わりに、
「このチームで大切にしたい基準は何だと思う?」
と問いかける。
同じ価値でも、言葉を変えるだけで、子どもたちの受け取り方は変わります。
昔の常識を捨てるのではなく、今に届く言葉へ変換する。
ここに、これからの指導者や保護者の大切な役割があると思います。
ラーナーセンタードとは、子どもに合わせきることではない
最近、指導の現場では「ラーナーセンタード」という考え方が大切になってきています。
直訳すれば、学ぶ人を中心にするということです。
ただし、これは「子どもの好きなようにさせる」という意味ではありません。
大人が何も言わないということでもありません。
指導者がすべてを教え込むのではなく、選手自身が考え、気づき、選び、学び取れるように場をつくること。
これが、私の考えるラーナーセンタードです。
昭和の指導は、どちらかというと「教える側」が中心になりやすかったのかもしれません。
正解を教える。
足りないところを指摘する。
基準に届いていないところを直す。
厳しく言って成長させる。
もちろん、それで育った力もあります。
ただ、これからの時代に必要なのは、選手が自分で考え、自分で基準を持ち、自分で戻れる力です。
指導者が全部を持つのではなく、選手の中に火がつくように関わる。
それが、ラーナーセンタードの大切なところだと思います。
安心と基準が、時代をつなぐ
私は最近、育成年代の現場で「安心と基準」という考え方を大切にしています。
今の子どもたちに必要なのは、ただ優しくされることではありません。
安心だけでは、ぬるいチームになります。
一方で、基準だけを押しつけると、ギスギスしたチームになります。
昔の厳しさをそのまま持ち込むと、選手は失敗を隠し、声を出せなくなり、挑戦しにくくなることがあります。
大切なのは、安心と基準の両方です。
安心があるから、本音が言える。
安心があるから、ミスを隠さずに次へ向き合える。
安心があるから、挑戦できる。
そして、基準があるから、成長に向かえる。
基準があるから、馴れ合いで終わらない。
基準があるから、チームとして戻る場所を持てる。
安心と基準が両方あるから、選手は自分で考え、挑戦し、崩れても戻れる。
これは、昭和の良さと令和の感覚をつなぐ考え方でもあると思います。
昔の厳しさを、成長を支える基準へ。
昔の優しさを、安心して挑戦できる土台へ。
昔の根性を、崩れても戻れる力へ。
こうして翻訳していくことで、過去の価値は今の子どもたちにも届く力になります。
おわりに
『真田丸』を見ながら、戦国時代の人たちは、その時代の常識の中で必死に生きていたのだと感じました。
それは、明治も、大正も、昭和も、平成も、令和も同じなのだと思います。
人は、その時代の常識の中で生きるしかない。
だから、過去の価値観を一方的に否定する必要はありません。
でも、その時代に通用した常識を、今の子どもたちにそのまま当てはめると、届かないことがあります。
私たち昭和世代は、いつの間にか“古い世代”になっていないか。
明治の人を見ていた昭和世代が、今は令和の子どもたちから見られている。
そう考えると、少し背筋が伸びます。
若い世代を嘆く前に、自分たちの常識を点検する。
昔の正しさを捨てるのではなく、今に届く形へ翻訳する。
そして、選手自身が考え、気づき、挑戦し、崩れても戻れる場をつくる。
その小さな努力が、次の時代のチーム文化を育てていくのだと思います。
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