必死なのに、なぜ余白がなくなるのか

ある大学サッカーの試合を、現地で観戦しました。

一方のチームは、ボールを長く保持していました。
丁寧に動かしながら、相手の隙を探している。

選手たちは、決して手を抜いているわけではありません。
むしろ一生懸命でした。
必死に走り、考え、何とか前に進もうとしていました。

でも、見ているうちに、ふとこんな言葉が浮かびました。

必死なんだけど、余白がない。

もう少しテンポを変えてもいいのではないか。
少しリスクを取って仕掛けてもいいのではないか。
相手の予測を外すような遊びがあってもいいのではないか。

もちろん、外から見ている私が簡単に言えることではありません。
ピッチの中には、ピッチの中にいる選手にしか分からない難しさがあります。

ただ、それでも引っかかりました。

なぜ、あれだけ一生懸命なのに、状況を変えるような一手が出にくくなることがあるのだろう。

その時、少し前に実施したリバウンドメンタリティーのセルフチェックの結果を思い出しました。

大学サッカー選手を対象にしたセルフチェックの中で、相対的に低かった項目の一つがありました。

失敗した時に周りの目が気になる。
周りの期待に応えることを優先しすぎて、自分の気持ちや考えが分からなくなる。

いわば、他人軸から自分軸へ戻る力に関わる項目です。

もちろん、このセルフチェックの結果と、私が観戦した試合を直接結びつけることはできません。
対象者と出場選手が同じとは限りませんし、因果関係があると言うつもりもありません。

ただ、二つの出来事を並べた時に、私の中に一つの問いが生まれました。

もしかすると、選手は「手を抜いている」から余白を失うのではなく、必死すぎるからこそ、余白を失うことがあるのではないか。

周囲の評価や期待を強く意識する。
正しくやらなければと思う。
期待に応えなければと思う。
ミスしてはいけないと思う。

すると、自分が今何を感じているのか。
何が見えているのか。
本当はどうしたいのか。

そこが分かりにくくなることがあります。

その結果、プレーから余白や遊びが消えていく。
即興性が減る。
自分から状況を変える行動が出にくくなる。

これはサッカーだけの話ではないと思います。

仕事でも、家庭でも、人前で話す時でも同じです。

「ちゃんとやらなければ」
「期待に応えなければ」
「失敗してはいけない」

そう思うほど、真面目にやっているのに、自分らしい判断ができなくなることがあります。

リバウンドメンタリティーというと、失敗した後に切り替える力だと思われることがあります。

もちろん、それも大切です。

でも、最近はもう少し広く考えています。

「戻る」とは、失敗した後に気持ちを立て直すことだけなのだろうか。

周囲の評価や期待に意識を持っていかれた自分を、自分の感覚、自分の判断、自分が大切にしたいことへ戻す。

そして、そこからもう一度、

自分は今、何を選ぶか

を決める。

これもまた、リバウンドメンタリティーなのではないかと思うのです。

崩れるとは、ミスをすることだけではありません。

周りの目に飲み込まれて、自分の感覚を見失うことも、ひとつの崩れです。

戻るとは、元気を出すことだけではありません。

自分の内側の感覚を取り戻し、もう一度、自分で選び直すことでもあります。

一生懸命なのに、余白がなくなる。
真面目にやっているのに、遊びがなくなる。
期待に応えようとしているのに、自分らしい判断が遠のいていく。

そんな時こそ、必要なのは「もっと頑張れ」ではなく、

今、自分は何をしたいのか。
本当は、どうなりたいのか。

という問いなのかもしれません。

あなたは「正しくやらなければ」と思うほど、自分の感覚を見失っていることはありませんか。

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