心のコップには、どんな経験が入っているのか

明日は、関東大会出場をかけた準決勝。

ここまでの失点は、相手が2。こちらが3。

数字だけを見れば、ほぼ互角だ。

しかし、その数字が意味するものは、同じではない。

こちらは準々決勝で、二度先制を許した。

苦しい時間が続き、一時は敗戦が頭をよぎった選手もいたと思う。

それでも、二度追いついた。

そして最後は、ロスタイムで逆転した。

一方、相手は準々決勝を3対0で勝ち上がってきた。

試合を支配し、危なげなく準決勝へ駒を進めた。

どちらも勝利である。

ただし、その勝利によって心の中に残ったものは、少し違うのかもしれない。

私はそれを、心のコップに入った経験の違いだと考えている。

相手の心のコップには、

「自分たちは力がある」

「自分たちのサッカーをすれば勝てる」

という自信が、たくさん注がれたはずだ。

これは、とても大きな力になる。

一方、こちらの心のコップに注がれたのは、自信だけではない。

二度先に点を取られても、二度追いついた。

苦しい時間が続いても、最後まで崩れなかった。

そして試合終了間際に、勝負をひっくり返した。

そこには、

「苦しくても戻れる」

「失点しても終わりではない」

「仲間と続けていれば、流れは変えられる」

という経験が入った。

この違いは、単なる気持ちの問題ではない。

脳には、目の前の状況を見て、考え、判断するための作業スペースがある。

専門的には、ワーキングメモリと呼ばれるものだ。

サッカーで言えば、相手の位置を見ること。

味方の動きを確かめること。

次のプレーを選ぶこと。

仲間や指導者の声を聞くこと。

こうしたことは、すべて頭の中の作業スペースを使って行われている。

ところが、失点した瞬間に、

「またやられた」

「このまま負けるかもしれない」

「自分のせいだ」

という不安で頭がいっぱいになると、その作業スペースは一気に狭くなる。

すると、普段なら見えているものが見えなくなる。

判断が遅れる。

仲間の声が耳に入らなくなる。

技術が急になくなったわけではない。

不安や焦りが、脳の作業スペースを埋めてしまっているのだ。

そんなとき、心のコップに何が入っているかが大きい。

もし、心のコップの中に失敗や不安しか入っていなければ、そこからあふれてくるものも不安になる。

しかし、

「前にも戻れた」

という経験が入っていれば、それが苦しい場面で思い出される。

すると、不安が消えなくても、不安だけで頭が埋まらなくなる。

「まだ終わっていない」

「次の一本に集中しよう」

「自分たちなら、もう一度戻せる」

そんな言葉が心のコップから出てくる。

その分だけ、頭の中に余白が生まれる。

周りが見える。

仲間の声が聞こえる。

次にやるべきことを考えられる。

私は、これが経験の力だと思っている。

そして、これは選手たちだけの話ではない。

私自身も人生の中で、何度も崩れそうになった。

もう無理かもしれないと思ったこともある。

それでも、誰かの言葉に支えられたことがあった。

時間をかけて、少しずつ立て直したこともあった。

以前に戻れた経験が、次の苦しい場面で自分を支えてくれたこともある。

だから私は、知っている。

人は、崩れないから強いのではない。

崩れそうになっても、戻れるから強い。

一度戻れた経験は、なくならない。

それは心のコップの中に残る。

そして次に苦しい場面が来たとき、

「前にも戻れた。今回も戻れる」

という力になって、自分を助けてくれる。

準々決勝で、選手たちは大きな勝利を手にした。

だが、手にしたものは勝利だけではない。

苦しい状況から、自分たちで戻った経験。

二度崩れかけても、二度立て直した経験。

最後まで続けることで、試合を動かした経験。

それらが今、選手たちの心のコップに入っている。

明日の準決勝でも、思いどおりにならない時間はきっと来る。

相手に押し込まれるかもしれない。

先に点を取られるかもしれない。

逆に、先に点を取ったあとで苦しくなるかもしれない。

そのとき、選手たちの心のコップから何があふれてくるのか。

焦りか。

不安か。

それとも、

「大丈夫。俺たちは戻れる」

という経験か。

私はベンチには入らない。

いつものように、スタンドの隅から静かに見守る。

明日見たいのは、勝敗だけではない。

苦しい瞬間に、選手たちが何を思い出し、どう戻ろうとするのか。

その姿を見たい。

人は、崩れないように生きることはできない。

チームも、ずっと順調でいることはできない。

だから大切なのは、崩れないことではなく、戻り方を知っていることだ。

準々決勝で得た経験が、明日のピッチでどんな力になるのか。

その答えを、静かに見届けたい。

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