話せないのではない。「安心すると話せる」のかもしれない。

先日、中学生を対象としたコミュニケーションセミナーを担当した。

そこで、私自身の教育観を揺さぶられる出来事があった。

私は生徒たちにこんな問いを投げかけた。

「最近、嬉しかったことを書いてみてください。」

「最近、悔しかったことを書いてみてください。」

すると、予想以上に多く返ってきた言葉があった。

「思い出せません。」

最初は意外だった。

中学生なのだから、嬉しかったことや悔しかったことは日々たくさん経験しているはずだと思っていたからだ。

一方で、別の場面では別の姿も見えた。

「この場では何を言えばいいのか。」

「先生が期待している答えは何か。」

そうした問いには、とても敏感に反応する。

大人が求める答えを察知する力。

評価される答えを考える力。

その力は驚くほど高かった。

しかし、自分自身の感情や感覚を言葉にするとなると、急に難しくなる。

私は、この違いがとても印象に残った。

さらに、全体に向けて「発言したい人?」と尋ねても、手を挙げる生徒はごくわずかだった。

ところが、安心できる雰囲気の中でペアワークを始めると、様子は一変した。

普段あまり話さない相手とも笑顔で会話が始まり、教室には自然な笑い声が広がっていく。

その姿を見ながら、一つの仮説が浮かんだ。

子どもたちは、話せないのではない。

安心できる環境では、自然と話し始めるのではないか。

後日、見学していた先生方とも振り返る機会があった。

先生方からは、

「普段は評価されることを常に意識して生活しているように感じる。」

「安心して自分を表現できる環境づくりが必要だと改めて感じた。」

という趣旨の感想をいただいた。

私は、この言葉を聞いて、とても印象深く感じた。

現場で見えていた景色が一致していたからだ。

これまで私は、スポーツチームを中心に多くの選手や指導者と関わってきた。

主体的に挑戦する集団を多く見てきたからこそ、「一般の子どもたちにはどんな特徴があるのだろう」という視点は十分ではなかったかもしれない。

今回、その視野が大きく広がった。

私は、この出来事を通して改めて考えた。

教育で本当に育てたいものは何だろう。

話し方だろうか。

発表の技術だろうか。

コミュニケーションのテクニックだろうか。

もちろん、それらも大切である。

しかし、それ以前に必要なのは、

「安心して話したくなる環境」

なのではないだろうか。

私は「リバウンドメンタリティー」という考え方を大切にしている。

人は失敗しない人になることが大切なのではない。

崩れても、安心できる場所があり、また戻ってこられる人になることが大切だと考えている。

それは子どもたちも同じである。

安心があるから挑戦できる。

安心があるから失敗を語れる。

安心があるから「本当はこう感じていた」と言葉にできる。

コミュニケーションとは、話す技術ではなく、

安心という土台の上に育つものなのかもしれない。

学校でも、家庭でも、職場でも。

私たちは知らず知らずのうちに、「正しい答え」を求めすぎてはいないだろうか。

そして、「ありのままの言葉」が安心して出てくる空気を、どれだけ育てられているだろうか。

もし子どもたちが変わるとしたら、それは教え方が変わったからではなく、安心して自分を表現できる環境が育ったときなのかもしれない。

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