「育てる人を育てる」というテーマに気づかせてくれた、ある再会の話

先日、東京駅で偶然、かつて一緒に働いた懐かしい人と再会した。
7年ぶりくらいだっただろうか。
彼女は今も変わらず元気そうで、自然と笑みがこぼれた。
当時は一緒に仕事に全力を注いでいた仲間で、彼女の方が年下だったけど、ずっと“先輩”という感じだった。
別れ際に「写真撮らせて。みんなに見せたいから」って言ってくれて、不意に心が温かくなった。


過去の現場、そして傷ついた自分

あの会社には、いろんな思い出がある。
上司だった社長は、偶然にも大学時代のサッカー部の先輩。
当時は面識もなかったけれど、同じ部活というだけで、どこか通じ合うものを勝手に感じていた。

そんなご縁に導かれて入社したはずなのに、待っていたのは想像以上に過酷な現実だった。
社長の言動は厳しさを越えていて、いま思えばパワハラと呼べるレベルだった。
真面目に頑張れば頑張るほど、潰れていくような感覚。自分の価値がどんどん削れていくようだった。

でも、不思議と救いもあった。
同じ現場で闘っていた仲間たち。
朝までカラオケで歌い続けて、そのまま出勤したこともあった。
無茶だったけど、あれはあれで必死だったし、熱かった。
「闘っていた」って言葉がいちばんしっくりくる。


自分を取り戻すプロセス

会社を離れたあと、しばらくは自分を取り戻す作業に集中していた。
「誰かの期待に応えなきゃ」と思いすぎて、気がつけば“真面目すぎる自分”に縛られていた。
でも、ふとした瞬間に思えたんだ。

「不真面目は違うけど、“非真面目”でいいんじゃないか」

つまり、力を抜くこと。肩の力を落とし、自分のペースで、自分らしく挑戦していくこと。
そう思えるようになってから、呼吸が少し深くなった気がした。


今、自分が掲げているテーマ「育てる人を育てる」

今、俺が取り組んでいるテーマは「育てる人を育てる」ということ。
人を育てる立場にいる人――リーダー、先生、上司、親……そんな人たちが、もっと柔らかく、想像力を持って、人の可能性を信じられるように。

ただ教えるだけじゃなくて、相手の中にある“芽”を感じ取り、余白をもって寄り添える人。
そんな“育てる人”を育てることが、今の俺の仕事でもあり、人生のテーマになっている。

振り返ってみれば、あのパワハラの社長も、何かと闘っていたんだろうと思う。
当時は怒りや悲しみの感情でいっぱいだったけれど、今ではこう言いたい。

「あの経験があったから、今こうして誰かの人生に関わることができています。ありがとう」


最後に、これを読んでくれているあなたへ

再会の最後に言われた「写真撮らせて。みんなに見せたいから」という言葉。
それがずっと心に残っている。
当時の時間が、きちんと“何か”として残っていたんだなと感じて、嬉しかった。

だから、今まさに頑張りすぎている誰かに伝えたい。

そんなに頑張らなくても、あなたには価値がある。
あなたらしく生きていい。

そして、もしあなたが誰かを育てる立場にあるなら、まずは自分自身を大切にしてほしい。
真面目すぎず、でも誠実に。
想像力と信頼と余白をもって、あなたのままで。

過去の苦しみも、いつか誰かを照らす光になる。
この言葉が、誰かの中で灯火になることを願って――。

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