最近、いじめに関する相談が続いた。
学年も学校も違う。けれど構図はよく似ている。
リーダーが孤立する。
三対一の構造が生まれる。
無視という、見えにくい攻撃が続く。
なぜ、これが繰り返されるのだろう。
いじめは「悪い子」がいるから起きるのだろうか。
私はそうは思わない。
私は、いじめられたこともある。
そして、いじめた側に立ったこともある。
あの頃の私は、劣等感の扱い方を知らなかった。
悔しさや嫉妬、承認されたい気持ちを、どう処理していいのか分からなかった。
だから未熟な方法を選んだ。
振り返れば、リテラシーが低かったのだと思う。
では、そもそもなぜ劣等感は生まれるのか。
人は比較の中で育つ。
テストの点数。
ポジション争い。
選抜。
順位。
比較そのものは悪ではない。
だが、比較が「存在価値の評価」と結びついたとき、劣等感は深くなる。
「できない自分には価値がない」
そう感じた瞬間、劣等感は心の奥に沈む。
そして問題は、ここからだ。
劣等感は自然な感情だ。
だが、扱い方を教えなければ、攻撃にも、依存にも、絶望にもつながり得る。
私は、劣等感をうまく扱えず、人生の舵を誤っていった人を何人も見てきた。
依存に向かった人もいる。
人間関係を壊していった人もいる。
自分自身を責め続け、生きづらさを抱えたまま大人になった人もいる。
そのたびに思う。
これは性格の問題なのだろうか。
それとも教育の問題なのだろうか。
では、劣等感を強く持たずに育つ子は何が違うのだろう。
私は三つあると思っている。
一つ目は、存在承認を受けていること。
結果と関係なく「あなたが大事だ」と言われ続けている子は、劣等感を抱いても、それに飲み込まれにくい。
二つ目は、感情を言語化できること。
悔しい、嫉妬している、不安だ。
それを言葉にできる子は、攻撃に変換しにくい。
三つ目は、比較と成長を切り分けられていること。
他人より上か下かではなく、昨日の自分よりどうか。
この視点を持てる子は、自分軸を保ちやすい。
いじめは、未処理の劣等感が集団の中で暴走した状態だ。
だから処罰だけでは止まらない。
本当に必要なのは、劣等感の教育ではないだろうか。
これは子どもだけの課題ではない。
学校教育者は、どんな承認の出し方をしているだろうか。
保護者は、結果と存在を混同していないだろうか。
私たち大人自身は、自分の劣等感をきちんと扱えているだろうか。
私は、加害者も被害者もつくりたくない。
未熟さゆえに誰かを傷つける子どもを減らしたい。
未熟さゆえに深く傷ついてしまう子どもを減らしたい。
いじめをなくすために本当に必要なのは、
優しさのスローガンではなく、劣等感リテラシーの教育なのかもしれない。
遠回りに見える。
けれど、それが一番確かな道なのではないかと、今は思っている。
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